公開: 2021年12月17日
更新: 2021年12月17日
渋沢栄一は、幕末に、現在の埼玉県の深谷で、藍玉などを生産する豊かな農家に生まれた。栄一は、藍玉の商売で成功し、家を豊かにした。栄一は、成長して江戸に出て、千葉道場で北辰一刀流を学び、一橋慶喜に召し抱えられ、幕臣となった。その後、徳川慶喜の命でフランスのバリ博覧会へ幕府の使節の一人として参加し、その後、ヨーロッパ諸国を巡り、ヨーロッパの資本主義や制度を学んで帰国した。
明治維新になると栄一は、日本社会の発展のためには、資本主義の発展が重要であるとして、ヨーロッパ諸国に存在していた銀行制度や、株式会社制度などを日本社会に根付かせるとともに、貧しい人々を救済する制度の確立などにも努力をした。特に、銀行の設立には、多大な努力をし、官営の第一銀行の設立に関与し、明治時代の資本主義の発展に寄与した。
その後、日本社会に必要と考えた数多くの私企業(株式会社)の設立に関与し、日本の近代化を進めた。さらに、実務的な知識の教育を重視して、いくつかの高等教育機関の設立にも関与した。特に、商法講習所(現在の一橋大学)の設立にも努力した。
渋沢は、この時代のリーダー達の多くが共通して身につけていた、儒学的道徳観と功利主義的な西洋思想を矛盾なく統合して、日本的資本主義の発展を推進する考え方をもち、それを二宮尊徳が志向した「報徳思想」としてまとめ上げ、当時の日本社会が富国強兵を実現するための基盤を形成した。
渋沢栄一は、そのような思想を分かり易く、「論語とそろばん」と題した書物にまとめた。そこに表されたのは、日本の国民として学ぶべき知識に、儒学的「徳」の精神と、社会の発展に精進することを生活の原理とする「勤勉・勤労」の生き方、そして、それを支える算術や算法の基礎と実践能力の大切さであった。
渋沢栄一、現代語訳「論語と算盤」、ちくま新書(2010)